Nothing but the BLUES

1. ブルースとの出会い
自分はいったい、いつ頃から「ブルース」というものを意識しだしたのか, まあ幼少の頃から音楽は好きだったようで、
ウイーン少年合唱団に憧れ、 小学校の合唱部に入ってみたり でもそれもあまり真剣ではなかったようで、
モーツァルトの「トルコ行進曲」が好きだったり スリーグレイセスの「黄色いサクランボ 」を歌いまくっていたり
(とくに”ウッフン”のところ) エノケンの(生誕100年になります)
「月光価千金」や「ダイナ」を声色してみたり、 この辺りからいわゆる「洋楽」に目覚めたのかな。
どうかな? 父の商売は洋化粧品問屋で、 いつも店先の進駐軍払い下げスピーカーからは グレンミラーやベニーグットマン
・ルイアームストロング・ベッシースミスなんかが流れていたんです。
もちろんその中にはブルースもあったんだと思います、 が、そんな、ガキの頃の私が服の袖を拭い鼻でピカピカにしながら
「おおっ!やっぱブルースはいいやねー、ロードハブマーシー!」 なんてことは思うわけがありませんが、
そんな環境も手伝ってかどんどん音楽に のめり込んでいくようになりまして、高校時代はこの年代、
いわゆる団塊の世代 の人間なら誰もが憧れるヴェンチャーズやビートルズにやっぱしはまり
エレキギターをかき鳴らしていたもんです。 (現在はブルースハープ、10ホールハーモニカ、 で後に紹介したい、
リトルウオルターやマディウオーター・マジックサムなど、 時には スタンダードジャズなんかも生意気に演奏してます)
あれ?なんか自分の生い立ち紹介みたいになっちまいました、スンマセン(謝)
死んでも聞きたくないヘタクソバンドを組んだのもこの頃です。 ちなみにバンド名はアドヴェンチャーズだったな、
ななんと安易な、、、、。 スリーコードのみ、 ドラなし千点、の曲をば選んでは悦に入ってました。
でも「されどスリーコード」で、その奥の深さといったら、マリアナ海溝を百倍しても足りません
このスリーコードこそ私のブルースへのきっかけだったんです、、たぶん。 たった三つのコード、
12小節、の中には「起承転結」といった完成された物語がぎっしりと
詰まっていて、 聞けば聞くほど演れば演るほどその(ブルースの)表現や背景の重さ、
迫害されていた 積年の怨み等に圧倒され、感動さえも覚えます。
やはりジャズ、ロック、ポップスetc,,, ブルースがお父さんお母さんなんだなあと思う今でも今日この頃です。
「アメリカにアフリカ黒人奴隷が連れてこられ、畑仕事や荷物の積み下ろしなどの共同作業中に
ほんの数分歌を歌う事だけは許されました。 ワークソングと呼ばれるものです.... その後 経済的、
社会的に窮迫を強いられた黒人たちでしたが、南北戦争以後、 黒人たちが 自分自身を認識するようになり
「俺たちゃもう自由だぜ!」という、黒人たちの喜びや決意は 音楽の発展においても 大きな変化になって表れました。
ブルースは自分自身についてうたう自己表現の 手段で。不運を歌に紛らわし、 かなわぬ 夢を歌に託す・・・、
黒人たちはブルースと共に喜び、 悲しみ、夢を見たのでした。ブルースはまさしく

黒人ひとりひとりの音楽として定着していったのです

2.そして底なし沼へ
ブルースの虜になってしまった私は、遂に本場のそれに素手で触れたく アメリカに行ったのは29歳の時で、
既に妻子もあり居酒屋も経営しており、 それはもう避難囂々、ディスコ・ゴーゴーでした。
「死んで帰ってこい」とまで罵られました。 でも「俺はブルースの悪魔に召されたんだ!」
「俺はクロスロードに立つロバート・ジョンソンだ!」 とか言って1976年初夏憧れのブルーズランドに
降り立ちました。 もう無我夢中で「BLUES」の文字や音に反射神経が麻痺するほど反応し
黒人はみんなブルースを唄えるんだとか思い、 出会いのブラザーをつかまえては
「ねえねえ何か唄ってよ」、、、するとそいつは「ヨッシャ」と唄ったのがなんと
ジョンデンバーのカントリーロードだったんです、しかも透き通るような ヴェルヴェットボイスで、
わたしはガックシきて、 そいつのちじれ頭に火をつけて、 もっとちじれさせてやろうと思ったぐらいでした。
でも実際ブルースは彼らにとっては、 思うほど意識の中には存在しておらず (特に若い黒人層は)
こちらが構えすぎていたんですね。 それでもまた別な黒人
(こちらはもう少し年寄り)は「おいらはブルーズなんぞはしらねえ」 と言いながら、
素晴らしいブルースを聴かせててくれたものでした かれらにとってブルースは特別 なものではないのです、
日本人が風呂に入って、 つい演歌を 口ずさむようなもんかな(俺だけだべか、、、)
そうこうして巡り回ってるうちにブルース暗夜の旅は 殆ど満足のいくものになりました。  
私はブルースマンではなくブルースが好きなミュージシャンです、

アメリカの旅で理解してきたブルース、 自分は黒人 (迫害されていた積年の怨み、苦しさ等を知っている)
にはなれるわけがなく一歩でも彼らの 頑固なスピリッツに今なお近づきたいし それを体で理解し、
自然に表現出来れば最高であります。 ただ単にブルースは暗い、切ない、苦しい、 だけではなく
それを乗り越えて 明るい明日に希望と力を移行して、 (Sun is gonna shining on my back door someday)
景気の悪いススキノでがんばって生きていこう!っていう音楽です。(チョット個人的)
前回説明した、まさに起承転結です 「ブルース」、、、
その底なし沼に今なお引きずり込まれてます。 あなたも道連れに、,,,

3.札幌に来たブルースマン
1970年代、日本のブルースブームは京都から始まったようで、、、
(なんで京都なのか未だ解らず) 毎年憧れのブルースミュージシャンが日本にも興行という名で
一稼ぎしにやってきました。 マディウオーター、ミシシピーデルタブルースの大御所も
その巨体を新宿厚生年金会館の ステージを狭く見せ、 札幌からバンド全員無理矢理引き連れて行った私に
大きな感動と 稲妻に打たれた (経験はないけど)ようなショックを与えてくれました。
マディは札幌には来なかったものの、毎年ブルース収穫祭(梶原信之氏主催) には大勢の素晴らしい
ブルースマンがやってきたもんです。 その中にはアメリカ本土ではステージにはもう何十年も上がったことがなく
今では自動車整備工が本職、ってのもおりまして、日本に来てから 「やあやあしばらくだなあ、元気だったか」
とか言い合ってハグってたり 「40年使ってるギターだよはっはっはっ」なんて言いながら、
ボリュームコントロール が出来ず、 いきなりグワーンと鳴った自分の音にビックリしたり
(たしかエディ・テイラーだったな) この人たち演奏の方は大丈夫かい、
と心配していたところ、 リハーサル では、いきなり昨日まで猛練習していたほどの完璧なシカゴブルースを
聴かされたのには驚いた ものでした。 特にシャッフルのリズムときたら 俺たちが何百年練習しても無理なほどで、
まあ練習したって出来るものではないのだが、 彼らの体から湧いてくる本来の不変のブラックスピリッツなんです
やっぱりこいつらは本物なんだーって痛感しました。
そして極めつけは、アルバートコリンズ!バックバンドの重く力強い ミデアムシャッフルのイントロが始まり、
ヌーっとステージ上手からあらわれた コリンズは80フィートもあろうかというシールドをブツ!とフェンダーの
ツインリヴァーブのインプットに差し込み、 Emオープンチューニングのブロードキャスター を一発ギャオーン
!私の髪は総立ち、毛穴もケツの穴も全開、目からは涙ザーザー
その時コリンズはギターの弦に触れていなかったように見えたのです、 きっと、魂が音を出したんだ!
そうに違いない、、、、 そう思ったのは私だけではなかったと今でも信じてます。
それから何年か後コリンズは癌でこの世を去りました。
BB・キング、ジョンリー・フッカー、ロバートJr・ロックウッド、オーティス・ラッシュ等
大勢の偉大なブルースマンが 札幌の地を踏んだんです。 大好きなマジックサムや私が今日ブルースハープを
演るきっかけとなった リトルウオルターは 残念ながら他界して、見ることは出来ませんでしたが
私の心の底のステージでいつでも彼らは最高のブルースを演奏しています。
もし彼らのブルースが80年代90年代と受け継がれなかったら 今の特にロック、
またジャズだって違うものになったかもしれない、、、、。
少しでも多くの人にこのブルースの素晴らしさを解ってもらいたく
日夜ヘヴンスタジオで果てしないブルースの行き先をクロスロードに立ち 思案しております。

4. BLUESに御慈悲を
 三回で終わるはずのコラムがなぜかまだ続いてます。たった三回でブルースを語り尽くせ!なんてとっても
無理じゃないの? って声があちこち、、、から出ているそうで、いやあホントにその通 りであります。
かといって何回続けてもその全てを理解するのは毎日何十年も ブルースに触れてきた私とて 絶対に無理です、
今まで感じたこと観たこと聴いたこと、つれづれ書き綴るのがせい一杯です もうしばらくこの幼稚な文章に
お付き合い頂き、 私のブルース馬鹿を笑ってやってください。 さて、いきなりですがやはりブルースはジャンルからみても
地味で有り、 未だヒットチャート 上位に上がることはまずありません。
12小節3コードでミリオンセラーなんてなかなか難しいでしょう、
ジャズの世界でのそれは 3コードといっても代理コードなんかを駆使してけっこう有名な曲は有りますが、、、
(ブルーモンクやCジャムブルース・モーニン等) それでも昔は若干のヒット曲はあったようです、BB・KINGの
「スリル・イズ・ゴーン」 やOTIS・RUSHの「ホーム・ワーク」等、、、、
でもそれらも本来の基本的な「ブルース」 ではなくいわゆる「シャレコマ」というもので、
かなりポップスがかったものでした。 幸運?なブルースマンはこれら「売り!」に徹したレコードプロデユーサーのもとで
魂を札束と交換し、一時は食べて行けたのでしょう。 1930年代、自分の魂とギターテクニックを悪魔とクロスロードで
交換した あのロバート・ジョンソンがさぞかし天国で嘆いたことでしょう、
まあBB・KINGのようなビックネームは希ですが,ブルースマンほとんどが今でも 自動車整備工やタクシードライバーで
生計を立てながら シカゴやメンフィスの ライヴハウスのステージに立っているようです。 地味なジャンルのブルース、、、
それでもコツコツとアルバムは出ているようですが、 これがまたひどいアレンジで 大切な原曲をおもいっきりハネまくった
16ビートにしてみたり、 中途半端なラップにしてみたりでとても聴けたものではありません。
こんな風にしたのはいったい誰が悪いんでしょうか、、、 エリッククラプトン?ミックジャガー?優歌団?
(フアンの人ゴメンナサイ) 私かもしれません、、、、。 ブルースの生まれた背景を考えてみれば「ウケル」なんてことを
思っては演奏出来るわけがないのですから(お前ちゃんと知ってるンじゃん)
ブルースは売れてはいけない音楽なんです! 貧乏していてもソウルがあればいいんです!
私もそろそろ何か他に職を見つけないと 食っていけなくなるナア、 油だらけの手で ハーモニカでも吹いていこうか、
誰か仕事下さーい、ブルースに愛の手(合いの手)を! Load Have Mercy on BLUES!

5, ブルースはブス?
「あんたいったいブルースのどこがそんなにいいんだい?」 こんなふうによく尋ねられます、
そんなとき考えることはもしも自分の彼女のことを 「あんなブスのどこがいいんだい?」 って聞かれるのも
同じことではないかなと思うんです、 確かにブルースはクラッシックのように美しい調べに乗った
華麗な楽曲ではありませんが そこはアバタもエクボ、出っ歯も愛らしく見えてくるもので、、
ブスは三日で慣れます! 団子っ鼻でも狂おしいほどにいとほしく,もう、一生離れられなくなります、
なんと言ってもその(ブルースの)パワフルで飾りっけの無い素直な表現にいつしか 身も心も奪われてしまうんです。
「嗚呼!ブルースよ!君のいない人生なんて考えられないよ」と思うようになるんです。 そうですって、、、絶対に!!
そんなわけでまずは手始めにこんなアルバム(女)とつき合ってみてはいかがでしょう。
マジック・サムの「69年のアンアーバーフェスティバルと 63,64年のシカゴのクラブでのライブ盤」、
一般客がテープを持ち込んで隠し録ったもので音は悪いですが内容は最高です! 顔は悪いが躰は最高、毎朝毎晩ベットイン、
太陽が黄色く見えるぐらい愛しました。 ややハイトーンで、少し遮のかかった、伸びのある情感豊かなヴォーカル、
シャープで弾きすぎないギター。マジック・サム(本名 Samuel Maghett)は、
1937年ミシシッピのグレナダで生まれ子供の頃から手製のギターで遊び、 地元のカントリー・ブルースマンの演奏や
ヒルビリーを聴いて育ったサムは、 1950年にシカゴに移住、演奏活動を始め 一番脂ののった頃、1969年12月1日、
心臓発作でその若き命を終えることになる。享年32才。 でも彼の魂は永遠に尽きることなく最高のブルースを、
今でも自信満々に唄い続けてます。 そんな愛しいブルース達に囲まれ、
まるでハーレムのごとくあっちの ブルース こっちのブルースと聴きあさりながら飽くことのない音楽三昧をし
今夜もその温かい腕の中で昇天する私です。
、、、ブス最高!!

6,「CHICAGO BOUND」

今年の札幌の夏は暑かった! でも私は夏大好きで,どんなに暑くても我慢が出来、むしろ爽快さを感じるぐらいです、
逆に冬は大嫌いで寒いと何ごとにも士気を失います。心身ともに盛り下がってしまいます。
暑いといえば常に思い出すのが1976年に訪れたシカゴ・イリノイで それまで自分が経験したことがない
最高の暑さでした, 40℃、 ちなみに華氏では105°F,まさしく「うだるような」がぴったりの7月の午後、
サウスサイド (本場シカゴブルースのメッカ)に行こうと 張り切ってダウンタウンよりバスに乗って
真っ黒に日焼けした黒人の運転手に 「このバスは〜サウスサイドにいきましゅか〜」って
勿論!流暢な?英語で問いかけました、 が!、、、
なななんと帰ってきた返事は 「てめえこのくそ暑いのにそったらとこ行って殺されても俺ら知らんからなっ!
悪いこと言わないから降りた方が身のためだぜ!」 私はビックリ冷や汗、運転手はビッチョリ玉 の汗、
すごすごと後ろ足で降りたものでした。 その日は日の暮れるまでミシガン湖の海のような湖のほとりで
悔し涙にむせておりました。 そんな訳で憧れのサウスサイドへは行けず。
オーティス・ラッシュや ジュニア・ウエルズ,キャリー・
ベルそしてジミー・ロジャース達のステージは幻になってしまったんです。
あれから28年、今年の9月に懐かしのシカゴ・イリノイに再挑戦します、
絶対死んでもサウスサイドへ行ってセッションして大暴れしてあの日の屈辱を
晴らしたいと思います、 そしてあの運転手に出会ったら思いっきり中指を立ててやろうかと、
今から「F××K YOU!」の練習に日夜励んでおります。 そしてシカゴブルースのバイブル的なアルバム、
ジミー・ロジャースの「CHICAGO BOUND」 を聴いてはブルースのパワーを充電している今日この頃です。


7. 稲妻は光った!
1970年代,一時的な「ブルースブーム」みたいなものが札幌にも押し寄せて 今年30周年を迎える
「札幌ブルース収穫祭」の創立者,梶原氏の熱い想いの 下,
大勢のブルースマンが今は無き札幌のアポロシアター「大谷会館」でほんまもん のブルースを聴かせてくれました。
「ライトニン・ホプキンス」...テキサスのあらくれじじい,彼もそんな時代にやって来た 一人です。
(本名 Sam Hopkins 1912年3月15日生まれ テキサス出身 1982年 1月30日死去 享年70歳)
その日の会場は[札幌市民会館]で,会場内には大勢の即席?ブルースファンがドロドロ,ボロボロのこきたない
ブルースマンを観ようと ,バーボン片手,日本酒抱えて開演を待ちに待っていたものでした, さあっ!
緞帳が上がり野太いギターの音が響き渡り, テキサスの荒れた土の中で貧困と闘ってきた 本物のブルース、、、、
そこにはなんとギラギラの金歯にスリーピースを着込み,ピッカピカの 靴を履いた,
大金持ちブルースマンが ,,,,。会場の雰囲気といったら.「なんだなんだあれがあのライトニンかよ!
レコードのジャケットとはかけ離れて すごいリッチじゃん,
がっかりだ」 なんて声があちこちと,,,,。 でも私は嬉しくなりました,あれが黒人の本来の人間らしいブルースマンでしょう
、、、と。 長い間貧困と闘ってきて今やっと何枚かのアルバムを創り,大金が入り,宵越しの金は持たない,
「キャデラックでも,いい女でもなんでも手に入れて,
おいらは命有る限り贅沢するんじゃーっ!デヘヘヘッ金は生きてる間に使うもんじゃいビェヘヘヘッ」
今でもあの下品な笑い声が聞こえて来ます。 演奏は最高の迫力で,その日,札幌の空には確かに「ライトニン」
稲妻は光りました。 その後,待ちに待ったアルバム, 「モージョハンド」が発売され,
レコードの針を一曲目に落とした瞬間 この世の音ではないようなショックを受けたことを記憶してます。
今でも聴く度にそんな衝撃を経験しては,「ライトニン・ホプキンス」彼の偉大さとブルーススピリッツ に感謝してます。
ありがとう!ライトニン!

8. SWEET HOME CHICAGO その-1 リベンジーは叶った!
2004年9月23日、そこはシカゴの老舗ブルースクラブ「ローザス・ラウンジ」のステージ、
遂に私は1976年以来、 憧れと屈辱の地でハーモニカを手に握り立ち、 涙にかすれる本場のブルースオーディアンスを前に
持っているだけのフレーズと魂をぶちまけたものでした。 今回、同行したピアノの濱本とのアイコンタクトなども完璧で、
もっとも彼は 初めての海外旅行でありながら、このような幸せな場面をのっけから経験できるのは
実に羨ましく嫉妬のかぎりでありますが、、、。 まあそれもこれも、私とシカゴ在住の ブルースピアニストの
アリヨ氏のおかげであることは彼も しっかりと解釈しているはずで わざわざ文面 にするほどでもないのですが(咳払い)。
その濱本のピアノがまたまた大受けで、地元のミュージシャンに「おめえは、ここシカゴで 3番目にマブイ、プレイヤーだべや」
などと誉められ、 奴は初秋のシカゴの真っ青な空高く舞い上がって ジョン・ハンコックセンタービルの避雷針にひっかかってました。
その夜のハウスバンドは「エディ・テーラー・ジュニア」。 シカゴブルースの歴史を語るには不可欠的存在の
「エディ・テーラー」の息子で、 今は亡き 偉大な父親のフィーリングを受け継ぎつつ、
若く新しい感覚をもミックスした最高のプレイで 私の心を揺さぶりました。 シカゴ一日目にしてこの贅沢な夜を、
もう一人の同行者Y氏ともども満喫し アリヨ氏の愛車でホテルまで送っていただき,途中イリノイ州一番と言われている
ホットドック屋に立ち寄りまして 豪華絢爛空前絶後なそれを空きっ腹に納め
♪Come on baby don`t you wanna go・・・sweet home chicago♪
など口ずさみながら安ホテルのベットに沈んで行ったのでした

9. SWEET HOME CHICAGO その-2 ミシガンのかほり
ウインディシティ(風の街)と渾名されるイリノイ州シカゴ, 9月下旬のその都会は,
連日快晴に恵まれ,世界有数の 近代建築と評価される高層ビル群も果てなく抜ける青空に,
その勇姿をそびえたたせ 連日連夜ブルース三昧の我々を苦笑しつつ見下ろしていました。
「キングストン・マインズ」....ここもまたシカゴ屈指の老舗ブルースクラブ、 店内はふたつに分かれていて、
それぞれにステージがあり, いろいろなジャンルのミュージシャンが集まることでも有名で、
過去にエリック・クラプトン、ミック・ジャガー、ボブ・ディランなども、 飛び込みで演奏したことがあるとか。
ストリートの向かいにはこれまた有名なクラブ「B.L.U.E.S」がその官能的なネオンの灯りで私を誘い,
ドアマンに100万ドルの笑顔で1ドルを握らせ -I`ll be back- とか言って両店を往き来したりしました。
....飛び入りといえば、昨晩の「ローザス・ラウンジ」での黒人のジイさん,
殺人罪で25年間刑務所にいたとか,2ヶ月前に出所して,所内で覚えたという ハーモニカを吹き鳴らし,
マイ・タップボード持参(ただのベニヤ板)で 踊るはブリッジするはタップするは,,,
でもブリッジはただ仰向けになってる だけでしたが魂は充分伝わりました、、、。
この日のキングストン・マインズのステージは「ビリー・ブランチ」 名の通ったブルースハーピストで
1951年イリノイ州グレイト・レイクス生まれのLA育ち, 若手ハーピストの最右翼であるが、
比較的オーソドックスなハープを吹き ダンディでとても紳士的なブルースマンでした。 サウンドも流石,「超一流」
のレッテルに恥じることなく素晴らしく アリヨ氏のバンド「サン・オブ・ブルース」も,彼曰く
「いやあ,えらいお粗末なバンドでっせえ」 とは言っていたものの,見事なダブルシャッフルリズムと
彼のキーボードで ビリーの重くメロディアスなハープをしっかりサポートしておりました。 その夜もまた贅沢な時間を過ごし,
ジャックダニエルの程良い酔い心地とミシガン湖からの やさしいい風に浸り、ウインディシティに、ブルースに感謝し、
エブリシングドック をほおばり、今夜のヘヴンスタジオの客入りを気にしつつホテルに帰りました。


10.SWEET HOME CHICAGO その3 [SOUTH SIDE SOUL]
シカゴサウスサイドのブルースクラブ「アーティス」 絵に描いたようなロードハウスのそこは
観光客もめったに行くことのない,,いや行けない 土着のブルースを本当に愛する者だけが入店を許される
と思わすほどの本格純正徹頭徹尾な店です。 今回アリヨ氏(シカゴ在住のブルースピアノプレーヤー)
の案内が無ければ絶対に無理だったはずで, 凸凹旅行組の計画では,サウスサイドの訳の分からない
なんとかアヴェニューとか,ほにゃららストリートの 片隅でミシガンの寒風にさらされて
あの世に行っていたに 違いありません。 チャイナタウンの超安激旨なレストランと言うか
食堂 みたいな店で食事を済まし「我満足的腹状態」とか馬鹿なジョーク を交わしながら,
「アーティス」の足の届かない止まり木がある 古い黒褐色のカウンターにブルースマン面 して、
貫禄100パーセント のママさんにジャックダニエル&アイスを注文し、
ステージを待ちました。 旧,NBAの選手だったという山のように大きいベースプレーヤー が
バンドリーダーで,ボーカルも重く枯れて説得力がありまさに本場の本物のブルースを
しかも憧れのサウスサイドで 満喫しました。とにかくどのバンドもリズム,特にシャッフル が素晴らしく,
ダッタダッタ、ダッタダッタと波のように 押し寄せるダブルシャッフルには完全にノックアウトされました。
今年は「神経質な鶏」誕生30周年記念のブルースカーニバル が札幌で開催されます,
我がマディシューズももちろん出演! あのスカイドックブルースバンドや札幌のブルースシーンを
盛り上げてきた懐かしいバンドがブルースバトルを展開します、 私としては今回のシカゴでの
貴重な経験を基に出せうるだけの魂を ぶちまけたいと思います。

11. NEW YORK NEW YORK

ラガーディア空港からクイーンズボロブリッジを渡ると 目の前に空を貫く摩天楼郡が飛び込んでくる,
マンハッタン,,,いつものことではあるが,おもわず「オオーッ!」 と声に出してしまう,
2年ぶりのニューヨークだ,,,が, なにか違う,なにか物足りない,そうツインタワーがないのだ
あの忌わしい同時多発テロ以来始めてのニューヨークに 着き,改めてその悲惨さを実感し
とりあえずボロホテルにチエックインして 今回始めてのニューヨークを経験する,
「シカゴ三番目のブルースピアニスト」(注:SVV11月号 SWEET HOME CHICAGO その1 本文参照)
濱本を引き連れて一様の観光ポイントを巡り,夜はホテルにほど近い スイングジャズ専門の
「Swing 42」へ出かけました この店はかなり歴史があり,あのタップで有名なグレゴリーハインズ なども
よく顔を出していたらしい。 20名近くのバンドマンが大迫力の演奏で,
サヴォイステップを華麗に踊るかなり年輩の客を乗せるにいいだけ 乗せていました。
私もジルバにはチョイと自信があり,ウズウズする躰を 押さえきれず,同行の濱本をつかまえて
「オイおまえ髪下ろして 女になりすませや,一緒に踊るぞ!」なぞと無理なお願いをし,
濱本の額に縦線を入れてしまったことは今になっても申し訳ないと 思ってます。
演奏は次から次ぎえと懐かしのジャズの嵐で,まさにニューヨーク そのもの,
「Take the A train」「In the mood」「Stomp at Savoi」,,, 今にでもアルカポネやらがチンピラを控え
ブッとい葉巻をくわえて入ってきても不思議ではない雰囲気でした。
一日目に選択したこの店は大正解で,ホテルまでの帰り道 ガラスの粉を混ぜた光るサイドウオーク
(雨などで濡れても滑らないよう 工夫してある)をスイングステップ も軽やかに歩いて
オンボロボロボロホテルへデリカテッセンの 腐る一歩手前のチョイプン安飯を抱えて
明日の計画を練りながら帰りました。 たしか摩天楼の上にはでかい「Blue Moon」が出ていたような,,,,。

12. エルモア・ジエイムス(寒い冬をぶっ飛ばせ!)

ロックやブルースなどでしばしば耳にするスライドギター。
フレットを指で押さえる代わりにバーを弦の上で滑らせて弾くこの奏法は、 別名「ボトルネック奏法」
などとも呼ばれていて、 ウイスキー等のボトルの先ッチョをチョン切って
指にはめて演奏 したことに由来してます。
チューニングは,大半がDかE,またはG等のオープンチューニングで フレットの上を
縦横矛盾に駆けめぐらせて弾きまくります。 ボトルネック奏法の第一人者として知られる
エルモア・ジェイムス(Elmore James 1918-1965) は超絶技巧とまでは言えないが,
単弦奏法に優れ、類稀な才能をもったシンガーでもありました。
ブルースのうねるようなフィーリングと突き刺さるサウンドは天下一品、
スライド三連フレーズ、いわゆる「ブルーム調」と言われるイントロ はつとに有名で,
代表作に「Dust My Broom」「Shake Your Money Maker」等があり,
ダウンタウンブギウギバンドなんかも「スモーキンブギ」とかで猿まねしてます。
彼以前には「サンハウス」や「ロバート・ジョンソン」という
素晴らしいプレーヤー もいて各自個性のある独自のサウンドを確立しておりました。
中でも「ハウンドドック・テイラー」 はものすごい大迫力のスライドで
1曲聴き終えると脇の下に汗ビッチョリかくほどで、3曲も聴くと完全に 脱水症状になり
ポカリスエット1本ラッパ飲みしたくなるほどです。 またこのハウンドドック・テイラーは
左指が6本も有るくせに たった一本の指しか使わず
,ジャズギターで有名なジャンゴ・ラインハルト はジプシー時代に火事で2本失い,
3本のみの指で超早弾きですから, なんとも皮肉な話です。
ブルースのスライドギターは殆どオープンコードで解放弦をジャラーンとやるだけで 和音になります
,簡単そうですが,これがまたなかなか思うように弾けず よほど練習を重ねなければフニャフニャの
大音痴になりかねません。 ましてやエルモアジェイムスのように歌いながら弾きまくるなんて
とても練習嫌いの私には無理な話です,それでもたまに酔った勢いで
演ってはみるものの,後で大反省するはめになっている今日この頃です。
皆さん,特にススキノのバンドの方々, 酔っぱらってステージに立ってはいけませんよ!
それは単なる自慰行為(マスターべイション)です。公然わいせつ罪で捕まりますよ!!
まっ,ともかく一度「エルモア・ジェイムス」聴いてみて下さい, ついでに「ハウンドドック・テイラー」も,,,,
寒い冬に汗びっしょりかきましょう!


13.ブルース de Dance
その昔,それほど昔ではないけれど日本においてのブルースの解釈は
「暗い」「薄汚れた」「悲しい」「重い」「低階級」
など あまり良いイメージがなく,むしろそのアウトサイダーな 感じが「個性」として誤解され,
若者の間で流行った時代がありました。 ブルースを聴くなら薄暗い安酒場のカウンターの隅で,
チャバネゴキブリ 相手におもいっきり安いバーボンを飲み,頭は落とし気味にして,
出来るだけマイナーな曲を,青白い顔した,ロン毛ストレートの髭マスターに 「あれかけて」と
リクエストし,たとえ早めの曲でもゆっくりと テンポの合わないリズムで首を横に振り(なぜか横なんです)
なにもしゃべらず,たまに訳のわからない詩に「イエー」とか 「ハブ マーシー」とか答えていた,
似非ブルースマンが結構居りまして, しかしそんな彼らはブームが去ればどこかへ消え失せてしまい。
その後はたぶん髪を何週間も洗わないドレッドにして, 質の悪い葉っぱ吸い吸い
,マイヤーズのヒップボトル をあおりながら「レゲエ」サイコー!とでも叫んでいたか,
あるいは三線なんかを抱えて芋焼酎で ゴーヤーチャンプルーでも 食っていたんでしょう。
,,,ブルースってそんな見かけの重い音楽ではなく,むしろ明るく楽しいものなんです,
昔の写真やフイルムなんかでブルースをバックに,それは楽しげに踊りまくって いる人たちを見たことがありますが,
あんな風に自然に接しられたら最高ですね。 以前,ニューヨークへ行ったとき「Swing 46」という
スイングジャズのライヴクラブ での通称リンディ・ホップというダンスを見,その素晴らしいノリと
底抜けに明るい踊りにすっかり圧倒されまして,「俺もあんな風に踊りたーい!」 と思い,
教則ビデオを買い込んで老体むち打ち,只今なんとか物にしょうと 特訓中であります,,,
どなたかパートナーになってはくれませんか? ・・1920 年代の後半、ニューヨークのハーレムにあったクラブ
「サヴォイボールルーム」で当時最高のミュージシャンのライブのもと、 リンディホップの基本ステップが出来上がり,
ブルースでもジャズでも ピッタリはまるこのダンスが大流行したらしいです。
ソシアルダンスのような決まり切ったステップや首の筋を何十本も立てて
背中に丸太一本入れたような硬直ばった姿勢も必要ないし,音楽と一体化した 抑揚のある自由で,
そして踊り手ひとりひとりの個性が光る,,,そんなダンスなんです。
ぜひここ札幌でもリンディ・ホップを盛り上げ,ブルースでジャズで ガンガン踊るさまを見たいものです,,。
さあッ!貴女も私も君も僕もオイラもアタイもワシもアンタも みんなでダンス! ブルースde DANCE!!


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